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月星頭巾軍団、京都池田屋を舞台に新撰組と共に戦う
江戸・幕末、当時 京都の町で、江戸から下ってきた名高く、最強の刺客軍団といえば
月星頭巾、月姫・星姫の月星頭巾軍団と、かの有名なだんだら羽織の新選組であった
この2つの刺客軍団が協力して、かの有名な池田屋を舞台にして過激派志士たちと激闘を
繰り広げたのです。当時の京都の人々にとって月星頭巾軍団と新選組が協力して
敵と戦うということは、まさに夢の共演だったのです。この想いを今の21世紀の人々に
あてはめるとしたら、仮面ライダー・ウルトラマン・スーパーマン…が協力してゴジラと戦う
ほどのすごいことかもしれません。時は1864年(元治元年)、翌1865年におきた
歴史的珍事・関が腹の戦いの1年前、月星頭巾・軍団も50歳から60歳になり
これが最後の大勝負、真剣勝負という感じでした それに対し若い新選組は
近藤と土方が30代、沖田が20代で、だんだら羽織をまとい 誠の字の書かれたハチマキを
きりりとしめたその姿はまさに全盛期、元気いっぱい、役者に不足はなく、まさに千両役者
同志の共演となったのです。1864年6月5日、夜7時 新選組は付近の捜索を開始
10時、長州藩定宿・池田屋に不穏な動きありとの情報をえる
10時40分、総勢10名の新選組と月星頭巾・軍団 3名が池田屋に突入
午前0時には池田屋内を制圧したが、この池田屋事件の戦いに女性剣士が2人
加わっていたと報じるのは、この娯楽時代劇ただ1つである。
翌6月6日、正午過ぎ 壬生屯所へがいせん、傷つきながらも晴れがましい姿は、
あたかも討ち入りを成功させた江戸の赤穂浪士のようだったのです。
月星頭巾・軍団と新選組の最強コンビはまさに過激派討捕の最強のスペシャリストだったのです。
それではここからは京都を離れ、江戸にもどってからも親しくしていたといわれる
月姫・星姫姉妹と実の母と息子のような強い心のきずなで結ばれていた天才剣士・
沖田総司との関係についてふれてみようと思います。
天才剣士とうたわれた沖田総司は1842年生まれといわれ 月姫・星姫より30歳ほど年下で
あった記録によると、父とは四歳で死別し、母の記録はいっさいないということである
こんな境遇で育った沖田は当然のこととして彼女ら2人を母親のように思って成長して
いったに違いありません。なにしろ、彼女らは江戸においては知らぬ者はないほどの
人気のある有名人だったからです。
京都・池田屋 新選組
月姫・星姫・姉妹にしても沖田は実の子と同じような年で、子供同然だったのかも
しれません。
3人は剣術の練習といってよく剣を戦わせていたものです。
沖田は剣の強さとは裏腹に体は以外に病弱で若くして肺結核を病み
療養のかいもなく、わずか27歳で亡くなったのです。
これも彼女らにしてみればふびんだったに違いません。
亡くなってからはよく墓参りにいっていました。
月姫・星姫・姉妹が一番好きだったのは、もちろんダントツで月星頭巾でしたが
短期間であったとしても、その次に二番目に好きだったのが、息子のように可愛がっていた
若くして亡くなった天才剣士・沖田総司だったのです。
こんなことはどんな歴史小説にも書いてありません。
娯楽時代劇だけにもっともらしく書いてある、絶対にありえないことなのです。